被爆76年 亡き息子に謝り続け 長崎へ救護に入った女性(95)
2021/8/9 下午 05:35:49
1945年(ねん)8月(がつ)9日(ここのか)、長崎(ながさき)に原子爆弾(げんしばくだん)が投下(とうか)されました。長崎(ながさき)の隣(となり)の佐賀県(さがけん)に住(す)む西久保(にしくぼ)キクノさん(95)はその時(とき)、19歳(さい)。看護師(かんごし)として被爆者(ひばくしゃ)を
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1945年 8月 9日 、長崎 に原子爆弾 が投下 されました。長崎 の隣 の佐賀県 に住 む西久保 キクノさん(95)はその時 、19歳 。看護師 として被爆者 を救護 するため、原爆投下 直後 の長崎市 に入 りました。そのせいで、息子 が若 くして亡 くなったのではないかと、76年 たった今 も自分 を責 め続 けます。
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西久保 さんは佐賀市 の陸軍病院 で働 いていました。長崎 へ向 かうよう命 じられ、翌 10日 、汽車 で爆心 地 から約 3・5キロメートル北 の道 ノ尾駅 へ行 きました。駅前 でむしろに寝 かされていた被爆者 らを救護 しました。終戦 の15日 まで焼 け野原 を歩 いて学校 や防空壕 を回 りました。
戦後 も今 の長崎県佐世保市 で、海外 の戦地 から引 き揚 げてくる人 の看護 などに当 たりました。48年 、戦争 で左腕 を失 った男性 と結婚 し、50年 に長男 の秀紀 さんが生 まれました。秀紀 さんは足 が速 く、中学 はサッカー、高校 はバスケットボールで活躍 。体育 の先生 を目指 して東京 の体育大学 に進 みました。
しかし71年 、21歳 で白血病 になりました。夏休 みに帰 ってきた秀紀 さんは顔色 が悪 く、西久保 さんが勤 めていた佐賀県立病院好生館 に入院 。その年 の10月 、息 を引 き取 りました。
西久保 さんは「私 が長崎 で放射線 を浴 びたせいだ」と考 えました。原爆投下 後 の焼 け野原 を歩 いた時 の焦 げるような熱 さや、線路 脇 の田 んぼで赤 ちゃんが亡 くなっていた光景 などを思 い起 こしました。終戦 翌 年 には一緒 に救護 に当 たった仲間 の一人 が亡 くなりました。自身 も白血球 (血液 の成分 の一 つ)の数値 に異常 がありました。国 は原爆 放射線 の遺伝 的 な影響 について「科学 的 に認 められていない」としていますが、西久保 さんは今 も自分 を責 め続 けます。
秀紀 さんの死後 は入院 していた姿 を思 い出 すのがつらく、病院 で働 けなくなりました。2008年 に俳句 の会 「佐賀 冬野 会 」をつくって創作 を続 けました。この春 、高齢 のため会 をやめましたが、最後 の合同 句集 で
逝 きし子 に詫 びても足 りぬ原爆忌
という句 を詠 みました。息子 に謝 り続 ける苦 しみを込 めました。
8月 9日 は長崎 に出向 いていましたが、足腰 が弱 って難 しくなりました。それでも一心 に核廃絶 を願 います。古 いアルバムを手 にした西久保 さんは、学生服 姿 で笑 う秀紀 さんの写真 を前 に「私 たちのような思 いをする人 を絶対 に生 み出 してはならない」と力 を込 めます。【樋口岳大 】
21歳 、白血病 で
しかし71
苦 しみ、俳句 に託 し
という
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